投資家が評価するScope 3排出量開示:複雑な算定課題と企業価値への影響
投資家が注視するScope 3排出量開示の重要性
近年、気候変動リスクおよび機会に関する企業開示は、単なる規制遵守の枠を超え、企業の持続可能性と長期的な企業価値を評価するための重要な要素となっています。特に、Scope 3(その他間接排出)排出量の開示は、投資家からの注目度が急速に高まっています。これは、企業のバリューチェーン全体にわたる気候変動リスクや機会を把握する上で、Scope 1(直接排出)、Scope 2(間接排出・電力等)だけでは不十分であり、サプライチェーンの上流・下流を含むScope 3が企業の排出量の大部分を占めるケースが多いことに起因します。
しかし、Scope 3排出量の算定と開示は、データ収集の困難さ、算定方法の複雑さ、対象範囲の広さなど、様々な課題を伴います。IR担当者をはじめとする企業関係者は、これらの複雑性を理解しつつ、投資家が何を重視し、どのように評価しているのかを把握する必要があります。
本稿では、投資家がScope 3開示を評価する際の主要な視点、企業が直面する複雑な算定課題、そしてScope 3開示が企業価値にどのように影響しうるのかについて、実践的な観点から解説いたします。
投資家がScope 3開示を重視する理由
投資家がScope 3排出量開示を重視する背景には、主に以下の理由があります。
- バリューチェーン全体のリスク評価: Scope 3排出量は、企業のサプライチェーンにおける物理的リスク(自然災害による事業中断など)や移行リスク(サプライヤーの脱炭素化遅延、サプライチェーン排出量への炭素価格賦課など)を示唆します。投資家は、これらのリスクが企業の事業継続性や収益性に与える潜在的な影響を評価するために、Scope 3データを必要としています。
- 企業の気候変動戦略の網羅性評価: Scope 1とScope 2だけでなく、Scope 3を含むバリューチェーン全体での排出量削減目標設定や取り組みは、企業の気候変動対策が包括的で長期的な視点に基づいているかを示す指標となります。投資家は、企業が自社でコントロールしにくいScope 3にどのように向き合っているかを通じて、経営の質やリスク管理能力を評価します。
- 新しい事業機会の特定: Scope 3排出量削減に向けた取り組みは、効率化によるコスト削減、低炭素製品・サービスの開発、サプライヤーとの連携強化など、新しいビジネス機会に繋がる可能性があります。投資家は、これらの機会を企業価値向上に資するものとして評価します。
- 同業他社との比較: 主要な企業でScope 3開示が進む中、投資家は企業のScope 3排出量や削減目標を同業他社と比較し、相対的なリスクエクスポージャーや競争優位性を分析しています。
Scope 3算定における主要な課題とIR担当者の対応
Scope 3排出量の算定は、Scope 1やScope 2と比較してはるかに複雑であり、多くの企業が以下の課題に直面しています。
- データ収集の困難性: サプライヤーや顧客など、自社の直接的な管理下にない主体からのデータ収集が必要です。データの粒度や信頼性にばらつきがあることが一般的です。
- 算定方法の選択と一貫性: GHGプロトコルをはじめとする算定基準には複数の算定方法が存在し、どのカテゴリをどこまで含めるか、どの算定係数を使用するかなど、判断が多岐にわたります。過去データとの比較可能性を担保するためには、一貫した方法論が必要です。
- 対象範囲(カバレッジ)の決定: GHGプロトコルでは15のカテゴリが定義されていますが、全てのカテゴリを算定・開示する必要があるかは企業によって異なります。関連性の高いカテゴリを特定し、算定範囲を決定する必要があります。
- 精度の向上: 収集できるデータの限界や算定方法の制約から、Scope 3排出量の算定精度には限界があることが多いです。推定値の使用や、どの程度まで遡ってデータを収集するかなども課題となります。
IR担当者は、これらの算定課題を投資家に対して適切に説明する責任があります。算定範囲、使用した算定方法、データ収集の制約、今後の精度向上に向けた取り組みなどを、透明性をもって開示することが求められます。例えば、以下のような情報提供が考えられます。
- 対象としたScope 3カテゴリと、それを選定した理由
- 使用した算定方法(例:GHGプロトコル準拠、排出原単位を用いた推定など)
- データ収集の状況(例:一次データの比率、推定値の主な根拠)
- 時系列での算定方法の変更点とその理由
- 今後の算定精度向上に向けた計画
このような詳細かつ正直な説明は、投資家からの信頼を獲得し、開示の質を高めることに繋がります。
投資家が評価するScope 3開示の「質」
投資家は、単にScope 3排出量の数値が低いかどうかだけでなく、開示情報の「質」を重視しています。具体的には、以下の点が評価のポイントとなります。
- 網羅性と透明性: 関連性の高いScope 3カテゴリを漏れなく算定・開示しているか。算定方法やデータソースが明確かつ透明性をもって開示されているか。
- 時系列での比較可能性: 過去からの排出量トレンドを追えるように、一貫した算定方法を用いているか。方法変更があれば、その影響を説明しているか。
- リスク・機会との関連性: 算定されたScope 3排出量が、企業の事業戦略やリスク管理とどのように関連しているかが説明されているか。バリューチェーン上の具体的なリスク(例:主要サプライヤーにおける炭素税導入の影響)や機会(例:低炭素物流網構築による効率化)に言及しているか。
- 削減目標との整合性: Scope 3排出量に対する明確な削減目標(SBTなど第三者検証を含む)を設定し、その進捗を開示しているか。目標達成に向けた具体的な取り組み内容(サプライヤーとの協働、製品設計の見直しなど)が開示されているか。
- ガバナンス: Scope 3を含む気候変動関連情報の収集、算定、管理、開示プロセスに関わる社内体制や責任体制が明確か。経営層の関与が示されているか。
競合他社のScope 3開示内容を比較分析することは、自社の開示レベルを客観的に把握し、投資家が何を期待しているかを理解する上で有効です。特に、同業他社がどのカテゴリを算定対象としているか、算定方法の開示レベル、削減目標の設定状況などを参考に、自社の開示戦略を検討することが重要です。
Scope 3排出量開示と企業価値評価への影響
Scope 3排出量に関する情報、特にその削減に向けた取り組みは、企業の将来的な財務パフォーマンスや企業価値に影響を与える可能性があります。投資家は、以下の観点からScope 3開示を企業価値評価に反映させようとしています。
- リスクプレミアム: Scope 3リスクへの対応が不十分な企業は、サプライチェーン混乱、炭素税の賦課、ブランドイメージ低下などのリスクに脆弱であると見なされ、より高いリスクプレミアムを課される可能性があります。
- 成長機会: Scope 3排出量削減に向けた革新的な取り組みや低炭素製品・サービスの開発は、新しい市場獲得や顧客エンゲージメント強化に繋がり、企業の成長ポテンシャルとして評価される可能性があります。
- 効率化とコスト削減: サプライチェーン全体のエネルギー効率改善や廃棄物削減は、直接的なコスト削減に貢献し、収益性向上に寄与します。
- 資本コスト: 気候変動リスクへの対応が進んでいる企業は、より有利な条件で資金調達ができる可能性があり、資本コストの低下に繋がる可能性があります。これは、サステナビリティ・リンク・ローンやグリーンボンドの発行などでも顕著です。
現時点では、Scope 3排出量を直接的に財務モデルに組み込む手法は発展途上の段階にありますが、投資家は開示情報を通じて企業の「対応力」や「将来性」を評価し、投資判断に織り込み始めています。例えば、シナリオ分析を通じて、将来的な炭素価格上昇がScope 3排出量にどの程度影響しうるか、サプライチェーン排出量削減投資が将来のコスト構造をどう変えうるかといった定性・定量的な分析に活用される可能性があります。
まとめ:IR担当者がScope 3開示でリードするために
Scope 3排出量開示は、気候変動に関する企業開示の中でも最も挑戦的な領域の一つです。しかし、その複雑さゆえに、透明性をもって課題に取り組み、改善を続ける姿勢を示すことが、投資家からの信頼獲得に不可欠です。
IR担当者は、単に数値を報告するだけでなく、以下の点を意識することが求められます。
- 社内連携の強化: 算定に必要なデータの多くは、購買部門、製造部門、物流部門、製品開発部門など、様々な部門に分散しています。関連部署との連携を強化し、データ収集体制を構築することが重要です。
- 算定方法の理解と説明: 算定に関わる専門部署と密に連携し、算定方法の背景、前提条件、限界などを深く理解し、投資家に分かりやすく説明できるように準備する。
- 投資家との対話: Scope 3開示に関する投資家の期待や懸念を直接ヒアリングし、開示内容やコミュニケーション戦略に反映させる。
- 競合他社の開示分析: 同業他社のScope 3開示状況を定期的に分析し、自社の立ち位置や改善の機会を特定する。
- 企業戦略との紐づけ: Scope 3排出量削減への取り組みが、企業の全体的な事業戦略や企業価値向上にどのように貢献するのかを明確に伝える。
Scope 3開示は、企業の気候変動対応の真価が問われる領域です。この複雑な課題に戦略的に取り組み、質の高い情報を投資家に提供することで、企業の信頼性と企業価値向上に繋げることが可能です。本稿が、貴社のScope 3開示戦略の一助となれば幸いです。