IFRS S2基準とTCFDフレームワーク:投資家が求める統合開示の実務ポイント
IFRS S2基準が気候変動開示にもたらす変化:投資家コミュニケーション強化のために
気候変動関連の開示は、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)提言の浸透により、企業の標準的な取り組みとなりつつあります。それに加えて、近年注目を集めているのが、IFRS財団の下に設立されたISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が公表した「IFRSサステナビリティ開示基準」です。特に気候関連開示を定めるIFRS S2基準は、TCFD提言を基礎としつつ、その要求事項をさらに具体化・強化しています。
投資家は、企業の気候変動に関する取り組みやリスク・機会が企業価値に与える影響をより深く理解するために、信頼性が高く比較可能な情報を求めています。IFRS S2基準に基づく開示は、こうした投資家のニーズに応える上で重要な役割を担うと期待されています。
本記事では、IFRS S2基準がTCFD開示とどのように関連し、投資家がどのような点を重視するのか、そして企業が今後の開示実務においてどのような点に留意すべきかを解説します。
IFRSサステナビリティ開示基準(S1/S2)の概要とTCFDとの関係性
ISSBが公表したIFRSサステナビリティ開示基準は、財務報告における重要性のアプローチに基づき、企業のサステナビリティ関連リスク・機会が企業価値評価に与える影響に関する情報を投資家に提供することを目的としています。
- IFRS S1号「サステナビリティ関連財務情報の開示に関する全般的要求事項」: サステナビリティ関連リスク・機会全般に関する情報の開示を求める包括的な基準です。
- IFRS S2号「気候関連開示」: 気候関連のリスク・機会に特化した詳細な開示基準です。
ISSBは、これらの基準を策定するにあたり、TCFD提言をベースとして採用しました。IFRS S2基準は、TCFDが推奨する4つの開示領域(ガバナンス、戦略、リスクマネジメント、指標と目標)をそのまま引き継ぎ、さらに具体的な開示要求を追加することで、その実効性を高めています。つまり、IFRS S2に準拠した開示は、TCFD提言への準拠をも満たすように設計されています。
IFRS S2基準がTCFD開示をどう強化するか:投資家が注目するポイント
IFRS S2基準は、TCFD提言のフレームワークを維持しつつ、投資家が求める情報を提供するためにいくつかの重要な強化を加えています。投資家はこれらの強化された要素を通じて、企業の気候変動への対応能力や財務的なレジリエンスを評価しようとします。
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ガバナンス:
- TCFD同様、気候変動関連リスク・機会に関する取締役会及び経営者の監督・管理体制の開示を求めます。
- S2では、取締役会や経営者がリスク・機会をどのように把握し、意思決定に反映させているかについて、より詳細な説明が求められる可能性があります。投資家は、形式的な体制だけでなく、経営層のコミットメントと実効性を評価します。
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戦略:
- 気候関連リスク・機会が企業の事業モデル、戦略、キャッシュフロー、資金調達、資本への短期、中期、長期的な影響に関する開示を求めます。これはTCFD提言と共通です。
- S2では、これらの影響の「定量的な情報(可能な場合)」の開示を奨励しており、単なる定性的な説明に留まらない、財務への具体的な影響評価がより重要になります。特に、移行リスク(政策、技術、市場、評判など)や物理リスク(急性・慢性)が、企業の財務諸表上の資産や負債、収益や費用にどのように反映されるか、シナリオ分析の結果と併せて説明することが求められます。投資家は、気候変動が企業の将来の収益性や競争優位性に与える影響を、具体的な数字を通じて把握したいと考えています。
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リスクマネジメント:
- 企業が気候関連リスクをどのように特定、評価、管理しているかに関する開示を求めます。
- S2では、これらのプロセスが、企業の全体的なリスクマネジメントプロセスにどのように統合されているかについて、より明確な説明が求められます。投資家は、気候変動リスクが既存のエンタープライズリスクマネジメント(ERM)システムの中で適切に管理されているかを確認します。
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指標と目標:
- 気候関連リスク・機会を評価・管理するために使用される指標及び目標、並びにパフォーマンスに関する開示を求めます。
- S2では、特に以下の点が強化され、投資家の評価において重要な要素となります。
- GHG排出量(スコープ1, 2, 3): スコープ3排出量の開示が「原則として」要求されます。投資家は、サプライチェーン全体を含む排出量削減の取り組みとその進捗を重視します。
- クロスアセットのリスク・機会: 企業が資産ポートフォリオ全体でどのように気候関連リスク・機会を管理しているかを示す指標の開示が求められます。
- 目標設定: 設定した目標(例: ネットゼロ目標、SBTsなど)に対する進捗状況と、目標達成に向けた資本配分計画などの説明が求められます。投資家は、目標の野心度、科学的根拠、そしてそれを裏付ける具体的な計画があるかを評価します。
- 財務諸表との連携: 使用したデータや仮定が、同時に開示される財務諸表における情報と整合的であること、またはその差異の説明が求められます。これは、気候変動関連情報の信頼性と財務的な重要性を高める上で極めて重要な要素です。
IFRS S2基準に基づく開示に向けた実務上のポイント
IFRS S2基準に準拠した開示を行うためには、企業は以下の実務上のポイントに留意する必要があります。
- 財務報告プロセスとの連携強化: 気候関連情報は、独立したサステナビリティ報告ではなく、財務報告の一部またはそれと連携した形で開示されることが求められます。これは、財務諸表を作成するのと同等の厳格な内部統制や監査が求められる可能性を示唆しており、経理・財務部門や内部監査部門との連携が不可欠となります。
- データ収集・管理体制の構築: 特にスコープ3排出量など、これまで収集・管理体制が十分でなかったデータの整備が急務です。信頼性の高いデータを継続的に収集するためのシステムやプロセスを構築する必要があります。
- 財務影響評価手法の深化: 気候関連リスク・機会の財務への影響を定量的に評価する能力を高める必要があります。シナリオ分析の結果を、具体的な財務インパクト(例: 減損リスク、収益機会、追加コストなど)として説明できるようにすることが求められます。専門家(例: アクチュアリー、リスクコンサルタント)の知見を活用することも有効です。
- 目標設定と進捗管理の厳密化: 科学的根拠に基づいた目標設定(例: SBTs認定)を行い、その進捗を客観的な指標を用いて開示することが投資家からの信頼を得る上で重要です。
- 取締役会の関与促進: 取締役会が気候変動リスク・機会を企業の最重要課題の一つとして認識し、その監督責任を果たすプロセスを明確に開示することが求められます。
- 他の報告フレームワークとの整合性: SASBやGRIなど、既に採用している他のサステナビリティ報告フレームワークとの整合性を考慮し、開示負担の最適化を図る必要があります。
まとめ
IFRS S2基準に基づく気候関連開示は、TCFD提言をさらに発展させたものであり、投資家が企業の気候変動への対応能力や財務的なレジリエンスを評価する上で、より具体的な情報を提供するものとなります。単なる規制対応としてではなく、企業の透明性向上、投資家からの信頼獲得、そして長期的な企業価値向上に繋がる機会として捉えることが重要です。
IR担当者は、IFRS S2基準が求める開示内容を深く理解し、社内の関連部門(サステナビリティ、財務、経理、リスク管理、事業部門など)と連携しながら、財務報告と同等の信頼性を持った気候変動関連情報の開示体制を構築していくことが求められます。これにより、投資家との対話をより建設的なものとし、企業価値の適切な評価に繋げることができるでしょう。